『王様と私』通信
6月29日(金)
今日もまた「ゆうぽうと」へ。
午前中は道具調べ/照明合わせの続き。午後から舞台稽古。
タプチムがダブル・キャストで、子供たちもダブル・キャストである。それぞれで段取りを付けなければならないので、それなりに時間が掛かる。が、予定通りに1幕の終わりまでをやり終える。
舞台稽古終了後は道具調べ/照明合わせの残り。これも予定通りにやり終える。
明日は2幕。
6月29日(金)
今日もまた「ゆうぽうと」へ。
午前中は道具調べ/照明合わせの続き。午後から舞台稽古。
タプチムがダブル・キャストで、子供たちもダブル・キャストである。それぞれで段取りを付けなければならないので、それなりに時間が掛かる。が、予定通りに1幕の終わりまでをやり終える。
舞台稽古終了後は道具調べ/照明合わせの残り。これも予定通りにやり終える。
明日は2幕。
6月28日(木)
今日も「ゆうぽうと」へ。午後からの道具調べ/照明合わせに付き合う。
今回の『王様と私』は、1幕が6場面、2幕が6場面である。
『王様と私』では、現代のミュージカルならシーンを分け、別のセットで別なシーンを作るだろう部分も、悠々と同じシーン、同じセットで、人物が入れ替わることで進んで行く。なので、今日の道具調べ/照明合わせやテクニカル・リハーサルも、比較的のどかに、悠々と進んだ。
明日は朝から今日の続き。午後はいよいよ舞台稽古。
6月27日(水)
ゆうぽうとへ。
かつてブロードウェイ・ミュージカル『ダンシン』が来日した時、ゆうぽうとで観劇した記憶がある。『ウィズ』もここで見たのではなかったか? それとも『マイ・ワン・アンド・オンリー』だったか?
観客としては何度か訪れているゆうぼうとも仕事では初めてである。
初めての会場に着いたら、まず周辺をリサーチすることにしている。最寄駅からの経路、コンビニや喫茶店の有無等を知っておきたいのである。近隣のロケーションをチェックした後は会場内の動線の確認である。楽屋口の場所、楽屋から舞台までの行き方、客席への回り方、などをチェック。そしてその後、ようやく客席からの見え方をチェックする番になる。
今日は朝から搬入、そして大道具の仕込みと照明のフォーカスがメインの作業である。その他のセクションも搬入、仕込み、調整などに掛かっている。
明日も終日スタッフ・ワーク。道具調べ/照明合わせに入り、その後テクニカル・リハーサルの予定。
6月26日(火)
2回目の通し稽古。そして稽古場最終日。
ロジャース&ハマースタインのコンビ第11作『サウンド・オブ・ミュージック』は、1959年11月16日にブロードウェイのラント・フォンテーン劇場で開幕し(後にマーク・ヘリンジャー劇場に移動)、1443回続演の後、1963年6月15日に閉幕した。演出はヴィンセント・J・ドナヒュー、振付はジョー・レイトンである。
1960年のトニー賞ではベスト・ミュージカル(『フィオレロ!』と同時受賞)、ミュージカル主演女優(メリー・マーティン)、ミュージカル助演女優(パトリシア・ニューウェイ)、指揮/音楽監督(フレデリック・ドゥヴォンチ)、ミュージカル舞台美術(オリヴァー・スミス)で受賞した。
これまでのロジャース&ハマースタイン作品では、脚本は全てハマースタインが(時には共同脚本家と共に)執筆して来た。が、『サウンド・オブ・ミュージック』の脚本はハワード・リンゼイとラッセル・クラウズが書いている。ハマースタインが胃癌に侵されたためである。ハマースタインはオープンの9ヵ月後、1960年8月23日に65歳で亡くなった。
1941年の『オクラホマ!』から18年、ブロードウェイでミュージカルの黄金時代を切り開き、進化、発展させてきたゴールデン・コンビの終焉であった。彼の死を悼んで、タイムズ・スクェアの明かりが1分間落とされた。
ロジャースは、ハマースタインの死後もミュージカルを作り続けた。スティーブン・ソンドハイム、マーティン・チャーニン、シェルドン・ハーニックと言った作詞家たちとコンビを組み、時には自身で作詞を手掛けた。
ロジャースは1979年12月31日に亡くなった。享年77歳であった。
明日はいよいよ劇場入りである。が、明日は終日スタッフ・ワーク。稽古は無い。
7月3日の初日まで1週間。これまでの『王様と私』の歴史に恥じない、「今」の風の流れる『王様と私』に仕上げたい。
6月25日(月)
通し稽古。
ロジャース&ハマースタインのコンビ第10作『フラワー・ドラム・ソング』は、1958年12月1日にブロードウェイのセント・ジェームス劇場で開幕し、600回の続演の後、1960年5月7日に閉幕した。演出はジーン・ケリー、振付はキャロル・ヘイニーである。
『フラワー・ドラム・ソング』は、2人にとっては『王様と私』以来のヒット作となった。このシーズンにオープンした作品の中では最長のロング・ラン作品となったのである。批評も概ね好評で、ニューヨークの主要7紙の内、5紙が好意的な批評を載せた。
演出のジーン・ケリーは、『雨に歌えば』などのあのジーン・ケリーである。ハリウッドに招かれる以前のケリーはブロードウェイで活躍するスターであった。『フラワー・ドラム・ソング』は、ケリーの演出家としてのブロードウェイ・デビュー作となった。
コンビの第11作は『サウンド・オブ・ミュージック』である。そして、それは2人の最後の作品となった。(つづく)
6月23日(土)
終日衣裳合わせ、ヘアメイクのレクチャー、録音、など。稽古は無し。
ロジャース&ハマースタインのコンビ第9作『シンデレラ』は、2人がテレビの為に書いた唯一の作品で、1957年3月31日のアメリカ東部時間午後8時にCBSテレビでオン・エアされた。演出はラルフ・ネルソン、振付はジョナサン・ルーカスであった。
シンデレラを演じたのは、ブロードウェイの『マイ・フェア・レディ』(1956)で注目を集めていたジュリー・アンドリュースで、彼女の出演がロジャース&ハマースタインの気持ちを大いに動かしたとされる。この番組は1億人を超える視聴者が楽しんだ。
『ステート・フェア』同様、後に舞台化され、ロンドン、ニューヨーク、日本などでも上演されたが、ブロードウェイ・ミュージカルにはなっていない。
コンビの第10作は『フラワー・ドラム・ソング』である。2人のコンビにも終わりの時が近づいて来た。(つづく)
6月22日(金)
2幕を台本順におさらい。
ロジャース&ハマースタインのコンビ第8作『パイプ・ドリーム』は、1955年11月30日にブロードウェイのシューパート劇場でオープンし、246回上演の後、1956年6月30日にクローズした。演出はハロルド・クラーマン、振付はボリス・ルナニンである。
ジョン・スタインベックの小説を原作とした『パイプ・ドリーム』は、『アレグロ』『ミー&ジュリエット』よりも短命に終わった。劇評もはかばかしくなく、ロンドン公演も、ナショナル・ツアーも(そして映画化も)行われることはなかった。元々の企画では、作詞/作曲にフランク・レッサー(『ガイズ&ドールズ』『ハウ・トゥ・サクシード……』)が望まれたが実現せず、ロジャース&ハマースタインが引き受けた。
Wikipediaには、「ロジャース&ハマースタイン・オーガニゼーションは『パイプ・ドリーム』がマペットとミス・ピギーたちで映画化されることを希望した」と記されているが、本当だろうか?
コンビの第9作は『シンデレラ』。『ステート・フェア』同様に、これもステージ・ミュージカルではない。(つづく)
6月21日(木)
1幕を台本順におさらい。
ロジャース&ハマースタインのコンビ第7作『ミー&ジュリエット』は、1953年5月28日にブロードウェイのマジェスティック劇場で開幕した。358回続演された後、1954年4月3日に幕を閉じた。演出はジョージ・アボット、振付はロバート・アルトンである。
『ミー&ジュリエット』は、ミュージカルを上演中の劇場を舞台としたバックステージ・ミュージカルであったが、コンビの第4作『アレグロ』同様、大きな成功とはならなかった。自作が上演中にはしばしば劇場を訪れるのを常としていたハマースタインが『ミー&ジュリエット』には足を運ばないので、秘書が理由を尋ねたところハマースタインは「この作品は嫌いだ(hate)」と言った、とされている。
コンビの第8作は『パイプ・ドリーム』である。(つづく)
6月20日(水)
2幕1場、2幕2場、2幕4場、2幕5場B、2幕6場を稽古。
ロジャース&ハマースタインのコンビ第6作『王様と私』は、1951年3月29日にブロードウェイのセント・ジェームス劇場で開幕し、1246回続演され、1954年3月20日に幕を閉じた。演出はジョン・ヴァン・ドゥルーテン、振付はジェローム・ロビンズである。
1952年のトニー賞ではベスト・ミュージカルをはじめ、ミュージカル主演女優(ガートルード・ローレンス)、ミュージカル助演男優(ユル・ブリンナー)、舞台美術(ジョー・ミルツィナー)、衣裳(アイリーン・シャラフ)を受賞した。
1幕半ばに登場するミュージカル・ナンバー「Getting to Know You」は、元々は『南太平洋』の為に書かれた楽曲「Suddenly Lovely」であった。「Suddenly Lovely」は『南太平洋』では使用されなかったのだが、歌詞を一新して、晴れて『王様と私』を代表するナンバーのひとつとなった。
コンビの第7作は『ミー・アンド・ジュリエット』。(つづく)
6月19日(火)
2幕2場、1幕5場、1幕6場、1幕4場を稽古。
ここでお詫びと訂正。
『ステート・フェア』に続く ロジャース&ハマースタインのコンビ第4作は『南太平洋』ではなく『アレグロ』であった。『アレグロ』の後、第5作が『南太平洋』で、『王様と私』は『南太平洋』に続く第6作となる。「そうだ」と思い込んでいた私の初歩的なミスである。ごめんなさい。
『アレグロ』は、1947年10月10日にブロードウェイのマジェスティック劇場で開幕した。315回の上演の後、1948年7月10日に閉幕した。演出・振付はアグネス・デ・ミルである。
『アレグロ』は、コンビの第1作『オクラホマ!』、第2作『回転木馬』ほどのヒットには至らなかった。コンビにとっては初めての原作の無いオリジナル作品であり、また今までになく野心的な作りの作品でもあった。批評は賛否が入り混じるものだった様だが、サン紙のワード・モアハウスは「優れていて、混乱している」と記している。
そしてコンビの第5作『南太平洋』があって、第6作『王様と私』へと繋がる。(つづく)
6月18日(月)
2幕1場、2幕4場をおさらい。
ロジャース&ハマースタインのコンビ第4作(訂正/正しくは第5作でした)は『南太平洋』である。
『南太平洋』は、1949年4月7日にブロードウェイのマジェスティック劇場で開幕した。1953年にブロードウェイ劇場に引っ越し、1925回続演の後、1954年1月16日に幕を閉じた。演出とミュージカル・ステージングはジョシュア・ローガンである。
1950年のトニー賞ではベスト・ミュージカル、台本(ハマースタインとローガン)、音楽(ロジャース)、演出(ローガン)、ミュージカル主演男優(エツィオ・ピンツァ)、ミュージカル主演女優(メリー・マーティン)、ミュージカル助演男優(マイロン・マコーミック)、ミュージカル助演女優(ファニタ・ホール)などで受賞した。また、『オクラホマ!』に続いて、再度ピュリッツァー賞も受賞している。
そして、『南太平洋』に続くコンビ第5作(訂正/正しくは第6作でした)が『王様と私』である。(つづく)
6月16日(土)
山梨に来ている。今日と明日の2日間、南巨摩郡富士川町にある「富士川町ますほ文化ホール」にて『ゼブラ』の公演が行われるのである。
詳細はこちらのPDFをご覧いただきたいのだが、この企画はホールと日大芸術学部演劇学科との共同事業である。PDFにもある通り、公演だけにとどまらず、バックステージ・ツアーや学生たちによるワークショップなども試みられることになっていて、これは演劇を使った地域交流、あるいは文化交流の試みなのである。
演劇学科の1授業である舞台総合実習が様々な形で学外と繋がりを持って行くことは、演劇学科側にも受け入れてくださる側にも大変意義のあることだと思う。この試みが今回だけに終わることの無い様に、私も微力ながらお手伝いをさせていただいている。
明日は『ゼブラ』最終日。2か月半に及んだ行程も、遂に千穐楽である。
6月15日(金)
アンサンブルの皆さんの衣裳合わせ。その後、2幕3場の稽古。
『王様と私』の衣裳デザイナーは宇野善子さんである。
宇野さんは舞台で活躍されている衣裳デザイナーのおひとりで、もう大ベテランと申し上げても失礼には当たらないだろう。試しに宇野さんのお名前をネットで検索してみていただければ、手掛けられた作品の数々が宇野さんのキャリアの豊かさを教えてくれる筈である。私がご一緒した作品だけでも、ミュージカル、翻訳劇、そして日本の創作劇まで実に幅広い。
話は前後するのだが、先日、衣裳スタッフがタイへ出向き、様々な生地(タイ・シルクなど)を調達して来た。その生地を活用して、今回の『王様と私』の衣裳は製作されている。
さて。
2幕3場は、タプチムが書いたという設定の劇中劇「トーマスおじさんの小さな家」シークェンスである。既にこのシークェンスは何日も稽古を重ねて来ているのだが、今日はその振り固め。
6月14日(木)
2幕6場を稽古。その後「Shall We Dance?」を振り付け。
2幕6場はラストシーンである。
様々な経緯があって、アンナはルイスと共にシャムの国を離れようとしている。そこに王様からの手紙が届く。手紙を読んだアンナは、「もう会うまい」と決めていた王様のもとへ向かうことにする……。
そして「Shall We Dance?」。このナンバーは、『ラ・カージュ・オ・フォール』で言えば「今その時」に相当する。
物語も終盤に近付き、様々なわだかまりを抱えた人々がそれを乗り越えて心を通わせる奇跡の様な瞬間。ミュージカルの存在意義は、こう言った瞬間を作り出せる所にある、と私は思う。
これで、全ての場面、ナンバーに手を付けた。明日からは、それぞれの精度を上げて行く稽古に入る。
6月13日(水)
2幕5場A、2幕2場、1幕5場、2幕5場Bを稽古。
ロジャース&ハマースタインのコンビ第3作『ステート・フェア』は、初めから映画のために書き下ろされた唯一のコンビ作品である。
後に2人の作品を次々と映画化することになる20世紀フォックスが製作し、1945年8月30日に全米で公開された。監督は、後に『王様と私』を撮ることになるウォルター・ラング、振付はハーメス・パンで、主題歌の“It Might as Well be Spring”が、その年のアカデミー最優秀主題歌賞を受賞した。
1962年には再映画化もされている。そちらの監督は、俳優としても有名なホセ・フェラー、振付はニック・キャッスルである。更に後には舞台化も行われ、1996年にはブロードウェイでも上演された。同年の5月27日にミュージック・ボックス劇場で幕を開け、110回の上演で幕を閉じている。
他のロジャース&ハマースタイン作品がブロードウェイから映画への道を辿ったのに対して、『ステート・フェア』はその逆を行ったのであった。(つづく)
6月12日(火)
1幕6場、2幕1場、2幕4場を稽古。
1幕6場は1幕の幕切れである。
シャムの第1王女であるチャン(花山佳子さん)から「王様の力になって上げて欲しい」と頼まれたアンナは、ある夜、王様のもとを訪れる。王様は「西欧の列強がシャムの国を植民地化するのではないか」と言うことを大いに危惧していた。
折しも、イギリスの外交官エドワード・ラムゼイ(橋爪淳さん)が近々シャムを訪問することが分かる。そこでアンナは王様に「ある提案」を持ちかける……。
2幕1場はラムゼイ卿をシャムの王宮に迎える場面、そして、2幕4場はラムゼイ卿がシャムを離れる場面である。
2幕4場には『王様と私』最大のヒットナンバー「Shall We Dance?」がある。『王様と私』を観たことは無くても、この楽曲は聞いたことがある、と言う方も少なくないだろう。
私個人は、このナンバーと「Getting to Know You」の2曲が『王様と私』のテーマを現す大事なナンバーだ、と思って演出している。
話は変わるが、今日は稽古場に「宝塚スカイステージ」さんと「ミュージカル」誌さんのカメラが入っていた。近々、それぞれで稽古場の様子が公開される筈である。お楽しみに。
6月11日(月)
1幕の1場、2場、3場、4場を稽古。
ロジャース&ハマースタインのコンビ第2作『回転木馬』は、1945年4月19日にブロードウェイのマジェスティック劇場でオープンした。890回の続演となり、1947年5月14日に閉幕した。演出のルーベン・マムーリアンと振付のアグネス・デ・ミルは『オクラホマ!』からの続投であった。
後にロジャースは「『回転木馬』は自身の作品中で最も好きな(favorite)ミュージカルだ」と記している。タイム誌は「20世紀で最高のミュージカル」だと書いた。
2人の第3作は『ステート・フェア』。但し、これはステージ・ミュージカルではない。(つづく)
6月8日(金)
江古田へ。日本大学芸術学部演劇学科の実習発表「舞台総合実習ⅢA『ゼブラ』」の初日であった。
朝からキャスト(学生)は抜き稽古、スタッフ(学生)も照明や音響、装置などなど、まだ調整作業中であった。
そして午後イチで、Wキャストの「ホワイト」チーム(ゼブラだけに)のGP(ゲネプロ)。GP終了後、スタッフ(学生)は更に直し作業、キャスト(学生)は駄目出し。そして夜の「ブラック」チーム(ゼブラだけに)の本番の準備に入る。
初日には200名ほどのお客様がご来場くださった。中には懐かしい顔もちらほらと見受けられ、普段劇場で仕事をするのとは雰囲気も異なり、こう言うのも悪くないと思った。
肝心の出来は、指導者としては余り良い点数は付けられない。が、上演成果だけが実習の目的ではない。なので、まずは1日目が無事に終演したことを素直に喜びたい。
明日は13時から「ブラック」チームの初日、18時30分から「ホワイトチーム」の千穐楽。当日のご来場も可能らしいです(特に13時の部)。
予報では生憎の悪天候になりそうです。どうぞ足元にご注意ください。
6月7日(木)
1幕4場を稽古。
ロジャース&ハマースタインの作品には、主人公の男女以外に、副主人公とでも言うべき若いカップルが登場する場合が多い。
『サウンド・オブ・ミュージック』で言えば、トラップ家の長女リーズルと郵便配達夫のロルフであり(2人は「もうすぐ17歳」を歌い踊る)、『南太平洋』ではケーブル中尉と島の娘リアットである(ケーブルは「春よりも若く」を歌い、リアットの母ブラディ・メリーは「ハッピー・トーク」で2人を祝福する)。
『王様と私』でそのパートを担うのは、ビルマからシャムの国王に献上されたタプチムと、同じくビルマからシャムの寺院について学びに来たルン・タの2人である。
ルン・タを演じるのは藤岡正明さんである。
藤岡さんは、かつてテレビ東京系列で放送されていた「ASAYAN」の番組内オーディションの最終候補4名に残り、デビュー。ミュージカルの世界には『レ・ミゼラブル』のマリウス役で登場した。
その後も『ミス・サイゴン』『この森で、天使はバスを降りた』『ブラッド・ブラザーズ』『RENT』『Bonnie & Clyde』等に出演され、ミュージカル俳優としてのキャリアを着実に伸ばしていることはご承知の通りである。
『サウンド・オブ・ミュージック』『南太平洋』そして『王様と私』には、共通することがもうひとつある。それは、若いカップルたちには、その間を引き裂こうとする障害が待ち構えている、と言うことである。(日々、話題はあっちこっちへ飛躍しているが、たぶん、つづく)
6月6日(水)
1幕1場の後半、1幕2場、そして3場を稽古。
(6月2日の日記から続く)埠頭でアンナ親子を迎えたのは、シャムの総理大臣クララホムである。
総理大臣(鶴田忍さん)は見るからに横柄で、この先のシャムでの生活が思い遣られた。何よりも、シャムの王室との間で結ばれた契約の条項に大きな隔たりがあることがアンナにとっては問題であった。
アンナの認識では、住まいは「王宮に隣接する場所に建てられたレンガ造りの戸建ての家」の筈であった。が、大臣はそんな話は聞いていないと言う……。
続く2場は、王宮内にある「国王の謁見の間」である。ここで、『王様と私』のもう1人の主人公であるシャムの国王が登場する。演じるのは松平健さんである。
松平さんは、1988年から90年にかけて東宝の製作で上演された『王様と私』でシャム王の役を経験済みである。今回はそれ以来、実に22年振りの王様役復帰と言うことになる。
このシャムの王様と、もう1人の主人公アンナ・レオノーエンズには実在のモデルが存在している。
原作は1944年に出版された小説“Anna and King of Siam”(マーガレット・ランドン著)であるが、これは、19世紀の中頃に、シャムの国王ラーマ4世に請われて、その王子(後のラーマ5世)の教育係に赴任したアンナ・レオノーエンズの実話を基にしている。
20世紀前半の大女優であったガートルード・ローレンスのエージェントが、ガートルードの為の作品を探していてこの小説に巡り合い、そしてそのミュージカル化をロジャース&ハマースタインの2人に依頼したことがミュージカル『王様と私』誕生の経緯なのであった。(つづく)
6月5日(火)
本日も歌稽古デー。
ロジャース&ハマースタインのコンビ第1作『オクラホマ!』は、1941年3月31日にブロードウェイのセント・ジェームス劇場でオープンした。2243回続演と言う、当時としては記録的な大ヒットとなり、1948年5月29日にロングランの幕を閉じた。演出はルーベン・マムーリアン、振付はアグネス・デ・ミルであった。
『オクラホマ!』の成功により、ロジャースとハマースタインはピュリッツァー賞を受賞した(トニー賞はまだ始まっていなかった。トニー賞がスタートするのは1947年のことである)。劇評家ブルックス・アトキンソンは「オープニング・ナンバー“Oh,What a Beautiful Morning”はミュージカルの歴史を変えた」とニューヨーク・タイムズに書いた。
続いて、2人は第2作『回転木馬』に取り掛かる。(つづく)
6月4日(月)
歌稽古デー。
リチャード・ロジャース(音楽)とオスカー・ハマースタイン2世(台本・作詞)のコンビは、ミュージカル史上最も成功したチームだろう。
1895年生まれのハマースタインと1902年生まれのロジャースは、『オクラホマ!』(1943初演)で初めてコンビを組んだ。が、それ以前から、2人はそれぞれ売れっ子のソングライターであった。
ロジャースは、作詞家のロレンツ・ハートと組んで(ロジャース&ハートと呼ばれる)、数々のミュージカルやヒットソングを発表していた。彼らの作品には『オン・ユア・トーズ』『パル・ジョーイ』などがあるが、1943年にハートが急逝してしまう。
ハマースタインは、作曲家シグムンド・ロンバーグ等とオペレッタ的な作品を発表していた。が、ロジャースと出会う以前のハマースタインのキャリアで最も重要な作品は、作曲家ジェローム・カーンと組んで発表した『ショー・ボート』だろう。『ショー・ボート』は、近代的な形式を備えたミュージカルの第1号と言われている。
リチャード・ロジャースとオスカー・ハマースタイン2世のコンビは「ロジャース&ハマースタイン」と呼ばれ、多くの人々に愛された。2人の作品には、題名の前に「Rogers & Hammerstein’s」と言うクレジットが付けられていた。2人の名前が作品のクォリティを保障すると共に、観客動員の面でも大きく機能していたのである。(つづく)
6月3日(日)
江古田へ。
日本大学芸術学部江古田校舎で、今日は「進学フェア」なる催しが開かれていた(詳細はこちらから)。その一環として、演劇学科では学部の中ホールを使っての公開稽古が企画され、舞台総合実習ⅢAの『ゼブラ』がその稽古を受け持つことになった。
稽古と言う物は、本来がお見せする様な性格のものではない。それは、パイロットが飛行中のコックピットを公開しない様な、医師がオペ中の手術室を公開しない様なことと同等である(違うかもしれないけど)。
だが、将来の進路のひとつとして日芸の演劇を考えていらっしゃる方々に、そのカリキュラムの一端を垣間見ていただくことには、本来を曲げるだけの意義がある、と思われた。で、未だ完成への途上ではあるが、『ゼブラ』の稽古を(恥ずかしながら)見学者の皆さんに見ていただいたのであった。
フェアの担当者の方のお話では、幸いなことに公開稽古は好評であった様だ。芸術学部全体の中でも、公開稽古に立ち寄ってくださった方の人数は多い方だった様である。
もしそうであったのなら、そのことにお力添えできたことは望外の喜びである。そうであったのなら素直に嬉しい。
で、告知。
舞台総合実習ⅢA『ゼブラ』は、6月8日~10日の3日間、江古田校舎の中ホールにて公演されます。入場は無料ですが、ご観劇の際にはご予約が必要となりますので、どうぞご注意ください(公演情報やご予約はこちらからどうぞ)。
6月2日(土)
1幕1場の前半を作る。
幕開きは、紫吹淳さん扮する主人公、アンナ・レオノーエンズがバンコックの港に降り立つ場面である。
時は19世紀中頃(台本には1860年代の初め頃と指定がある)。アンナはシャムの国(現在のタイ)に、国王の子供たちの教育係として招かれた。アンナは英国陸軍将校であった夫と死別し、今はひとり息子のルイス(上白石萌音さんと石井日菜さんのWキャスト)と暮らしている。
アンナ親子をシンガポールから乗せて来た船はチャウ・フィア号。イギリス人の船長オルトン(園田裕久さん)は、外国の夫人がシャムで仕事をすることがどんなに困難であるか、とアンナに忠告する。望遠鏡で近づいてくる船を眺めていたルイスは、「乗っている人が裸だ!」と驚愕し……。
この場面にはミュージカル・ナンバー「I Whistle a Happy Tune」がある。
「怖い時には口笛を吹けば大丈夫」と、アンナがルイスに歌い掛けるナンバーだが、これは実にロジャース&ハマースタインらしいナンバーのひとつだと思う。
2人が後年手掛けることになる『サウンド・オブ・ミュージック』には、「怖い時には好きな物を思い浮かべて」と言う内容の「My Favorite Things」があるが、この2曲は内容も役割もとても良く似ている。
さて。
埠頭でアンナ親子を迎えたのは、シャムの総理大臣クララホムである。が、2人の出会いはまた次回。
6月1日(金)
顔寄せ。キャスト、スタッフをはじめ、関係者一同が参集した。
製作統括の酒井プロデューサーの司会により、関係者、スタッフ、そしてキャストの皆さんが紹介される。ご挨拶は、主催者を代表されて一般社団法人映画演劇文化協会の髙橋昌治副会長が、キャストを代表されて松平健さんが、そして不肖ながら私も一言述べさせていただいた。
顔寄せが始まる間際になって酒井プロデューサーが、「笑える挨拶を頼むよ。好きなんだよ、君のオチのある挨拶」とおっしゃった。確かに私は、過去に顔寄せや製作発表などで笑いを取りに行ったことも無い訳では無い。が、それは、たまたま行けそうなネタを思いついた時に限ってのことである。その場で面白い話を思いつく様な能力があれば、私はきっと別の人生を歩んでいたことだろう。
私の挨拶が笑いの無い、ありきたりのものに終わったことは言うまでも無い。
顔寄せ終了後は読み合わせ。
全幕を読み合わせたのだが、まだ歌稽古が不完全なので、ミュージカル・ナンバーは割愛した。それと、子供たちは学校があるので、(ルイスとチュラロンコンを除いて)子供の台詞はアンサンブルの大人が代読した。
読み合わせも中抜きだとあっという間に終わってしまう。なので、まだ日は高かったが、今日の稽古はお開き。
稽古後は音楽監督補の安崎求さんと、音楽の行き方について意見交換。更に演出部の皆さんと、明日の稽古に備えての打ち合わせ。
いよいよ明日から立ち稽古に入る。
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