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『GWTW』通信/特別編

  以下の文章は、ミュージカル版『風と共に去りぬ』博多座公演の稽古中(2006年9月)にこのブログに記した『GWTW』通信から、東宝での『風と共に去りぬ』上演史について触れた部分をまとめたものである。ご参考までに。 

■マーガレット・ミッチェルによる原作小説が刊行されたのは1936年のことで、4ヶ月で70万部を売り、同年のピュリッツァー賞を受賞した当時の大ベストセラーである。今でも新潮文庫で読むことができるが、これは全5冊に及ぶ大河小説である。
 
一般に馴染みが深いのは映画版の『風と共に去りぬ』であろうが、1939年に映画化されて同年のアカデミー賞を8部門で受賞した、上映時間4時間に迫る超大作である。日本でこの映画が公開されたのは、第2次世界大戦の影響で1952年のことであるが、以来繰り返し上映されて、その都度新しいファンを生み出して来た。
 
このベストセラー小説を世界で初めて舞台化したのが菊田一夫で、それは1966年のことであった。

■帝国劇場は1911年に開場した日本初の洋式劇場である。現在の帝劇は2代目で、1966年の9月に竣工した。そのオープニングとして、10月の歌舞伎公演に続いて11月3日から上演されたのが菊田一夫/脚本・演出による『風と共に去りぬ』で、これが世界初の舞台化であった。
 
この公演は翌年の4月2日まで続く大ロングラン公演だったのだが、この時上演されたのは「第1部」と銘打たれた前編で、ここではスカーレットのアトランタからの帰郷までが描かれた。後編に当たる「第2部完結編」は1967年の6月1日から帝劇で、こちらも3ヶ月に渡るロングラン興行であった。
 
現在の帝劇は、この時の『風と共に去りぬ』上演を想定して様々な舞台機構や設備が設計されたと聞く。地下6階にも及ぶ奈落、2層になった巨大な迫り、直径9間(けん)にも及ぶ回り舞台、舞台上下(かみしも)からセットを乗せたまま入ってくるスライディング・ステージ、奈落でセットごと舞台を差し替えるワゴン・ステージ、舞台後方からの映像投影を可能にするリア・スクリーンと映写室・・・。
 
これらを駆使した
『風と共に去りぬ』に、当時の観客は度肝を抜かれたに違いない。アトランタを脱出する場面の背景には、円谷英二による特撮の炎上シーンが用いられ、スカーレットたちを乗せた馬車を引いたのは生きた本物の馬であった。
 
ピットにはオーケストラも入っていたが、この時の『風と共に去りぬ』はミュージカルではなかった。当時はストレート・プレイの劇伴を生のオーケストラが演奏することがあったのである。
 
この舞台化の成功を受けて、当時東宝の演劇担当重役でもあった菊田一夫は『風と共に去りぬ』のミュージカル化に着手する。

ミュージカル『スカーレット』は1970年1月2日に帝劇でオープンした。菊田一夫が担当したのは製作・脚本で、演出・振付にはジョー・レイトンが、作詞・作曲にはハロルド・ロームがブロードウェイより招かれた。
 
 ジョー・レイトンは『サウンド・オブ・ミュージック』(振付)や『ワンス・アポン・ア・マットレス』(振付)、『バーナム』(演出・振付)などを手掛けた才人で、『ノー・ストリングス』(演出・振付)と『George M!』(演出・振付)でトニー賞の最優秀振付賞を受賞している。
 
ハロルド・ロームには『Pins and Needles』『Call Me Mister』などのブロードウェイ作品があるが、日本で比較的知られているのは『ファニー』だろうか。
 
ミュージカル
『スカーレット』の製作に当たっては、他にも美術、照明、衣裳、編曲などのスタッフがアメリカより招かれた。そして帝劇の様々な部屋が占拠され、昼夜を問わぬ作業が続けられたらしい。
 
このミュージカル『スカーレット』は1972年にはロンドンに上陸し、由緒あるドルリー・レーン劇場で5月3日から翌年の4月7日まで上演されている(タイトルは『Scarlett』ではなく『Gone With The Wind』に戻された)。これは日本発のオリジナル・ミュージカルの初めての輸出だったのではないだろうか。ミュージカルの上演に関しては、日本は未だに輸入超過のままである。
 
ややこしいのは、後に発表された『風と共に去りぬ』の続編小説(アレクサンドラ・リプリー/作)が同じ『スカーレット』と言うタイトルで、『スカーレット』と言う題名のままで帝劇で舞台化(1996年)もされていることである。
 
菊田版のストレート・プレイ『風と共に去りぬ』は初演の後も「総集編」が作られたり(1968年帝劇)、再演も行われたり(1974年、1987年)したのだが、ウエストエンドにまで進出した菊田版ミュージカル『スカーレット』の方は、その後国内で上演された記録が見あたらない。
 
『風と共に去りぬ』を新しくミュージカルにしたい、と聞かされたのは『ローマの休日』をミュージカル化してようやく一息ついた頃のことであった。

■1963年の『マイ・フェア・レディ』初演以来、東宝は翻訳ミュージカルのパイオニアとして数々の名作、話題作を上演して来た。が、その一方でオリジナルでミュージカルを製作する試みは、数える程しかリストに残されていない。
 
パラマウント映画『ローマの休日』を素材に日本人クリエイターの手でオリジナル・ミュージカルを作る、という企画がいつ、どのようにして出て来たものなのか、残念ながら私は知らない。私はその事実を1996年9月の新聞報道によって知ったのであった。私がその演出を担当する様に命じられたのは翌年の5月のことである。
 
1年半の準備期間を経て、ミュージカル『ローマの休日』は1998年10月1日に青山劇場でワールド・プレミアが行われた。幸いなことにこの公演は好評を博し、『ローマの休日』はその後大阪、名古屋、博多で上演され、2000年の3、4月には帝劇に凱旋した。更にその後韓国へ輸出され、韓国人スタッフ&キャストによる上演も行われたのである。
 
その好評を受けて(だろうと私は想像しているが)、東宝発のオリジナル・ミュージカル第2弾として企画されたのが
『風と共に去りぬ』であった(のだろうと私は理解している)。
 
脚本は『ローマの休日』も手掛けた堀越真さんで、菊田一夫の一連の脚本を元にはしているが、実際は堀越さんによる「ほぼ」書き下ろしである。
 
音楽(作曲、編曲、オーケストレーション、音楽監督)は佐橋俊彦さん。今年(註/この文章を書いた2006年)の『ウルトラマンメビウス』、去年(註/2005年)の『仮面ライダー響鬼』など、テレビの世界でも売れっ子だが、『テニスの王子様』『こちら葛飾区亀有公園前派出所』など、こつこつとミュージカル作りも続けてきた才人である。
『風と共に去りぬ』の縁で、『ミー&マイガール』の音楽監督も引き受けて貰った。
 
そして作詞はあの秋元康さんである。若い頃よりブロードウェイやラスベガスで本物のショーを観て来ただけあって、ミュージカルについての見識も想像していた以上に深い方であった。出来上がった
『風と共に去りぬ』の歌詞は「いわゆるミュージカル風」というものとは異質であるが、それこそが秋元さんがこだわったことである。

ミュージカル『風と共に去りぬ』は、帝劇初演とそれ以降とでヴァージョンが異なっている。改訂は台本、ミュージカル・ナンバーから舞台美術まで多岐にわたって行われた。
 
前作『ローマの休日』の時にも、上演の度に繰り返し手直しが行われたのだが、『風と共に去りぬ』は、帝劇初演から次の大阪梅田コマ劇場での再演まで1年以上間が空いていたこともあり、かなり大規模な改訂を一気にやり遂げた感じであった。大阪以降の再演は、この時の「梅田コマヴァージョン」にほぼ準じている。今回の博多座版もである。
 
前回、最後に『風と共に去りぬ』が帝劇で上演されてから今回の博多座再演までの間には3年の年月が流れている。そのせいか、稽古に入ってみて幾度となく「あれ・・・?」という瞬間に出くわした。
 
「あれ・・・?」というのは、「この場面に出ていたっけ?」であったり、「そっちに退場するんだっけ?」であったり、「こんなこと、やってなかったっけ?」と言った類のことである。
 
それは初演ヴァージョンと再演ヴァージョンがごちゃ混ぜになって記憶に残っていることに起因する混乱であった。やはり苦労した初演の時のことの方が強く残っているらしく、それが「あれ・・・?」という違和感を引き起こしたのである。
 
そう感じたのは私だけでなく、以前も参加していた人はほとんど全員、スタッフも出演者も、例外なく同じ感覚を味わった様である。
 
人の記憶ほど当てにならないものはない。(了)

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