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2007年3月の記事

『ジキル&ハイド』通信

3月30日(金)

  オーケストラで通し稽古。

  今日の通し稽古は最良、最高の出来であった。鳥肌が立った。涙が出そうになった。自画自賛しても仕方がないのだが、本当にそうだったのだから仕様がない。
  前回、再々演の初日の「時が来た」は、鹿賀さんの最高のパフォーマンスだと思っていたのだが、今日のはそれを遥かに凌ぐ「時が来た」であった。
  もちろん鹿賀さんだけではない。マルシアさんや、蘭々さんや、戸井さんや、浜畑さんや・・・、キャストの全てとオーケストラとスタッフ全員が、今日の最良、最高を作り出したのである。

  明日はいよいよ稽古場最終日。そして劇場へ。

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『ジキル&ハイド』通信

3月29日(木)

  オーケストラとキャストの歌合わせ。

  『ジキルハイド』には1幕のラストと2幕の頭、そして2幕の後半にエドワード・ハイドによるショッキングな○○シーンが登場する。今回が初観劇と言う方のためにその内容には触れずにおくが、それら一連のシークェンスを創作してくれたのは渥美博さんである。
  それらのシークェンスが現在の形に落ち着くまでには随分と紆余曲折があった。例えば、1幕ラストの現場は「テームズ川に臨む荷揚げ場の近く」と言う設定なので、大荷物を吊り上げた滑車のロープをハイドが切って、その荷物を大司教の頭上に落として○○する、とか、いっそ大司教をロープで吊り上げて・・・、とか、とにかく様々なアイデアが提案されては没になった。

  美術デザイナーや小道具さん、演出部さんも巻き込んで、みんなで嬉々として○○の想を練っていたわけであるが、知らない人が見たら変質者の集まりに見えたに違いない。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月28日(水)

  抜き稽古とオーケストラ・リハーサル。

  『ジキルハイド』の鬘(かつら)はオランダ製である。発注先はドイツ・ブレーメン版の『ジキルハイド』を手掛けた業者で、クォリティとコスト・パフォーマンスの良さが決め手であった。その鬘を調達しデザインの一切を取り仕切るのは「鹿賀さん大好き」のヘア・デザイナー、武田千巻さんである。
  衣装デザイナーは小峰リリーさん。衣裳の主要な物はデザインが起こされて新調されたのだが、それ以外の何点かは、小峰さんがロンドンの古着屋を回って調達してきた物に手を入れて使用している。生地の豊富さや仕立ての良さなどの点で、ロンドンの古着屋街はとても充実しているのだそうである。

  スタッフワークでも様々な新たな試みがなされた『ジキルハイド』であった。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月27日(火)

  オーケストラ・リハーサル始まる。

 『ジキルハイド』の脚本と作詞を担当されたレスリー・ブリカッスさんが来日し、初日の舞台をご覧になる、と知らされたのは、立ち稽古に入って間もない2001年10月7日のことだった。
  ブリカッスさんの名前を知ったのは中学時代、ミュージカル映画の楽しさに目覚めた頃であった。当時テレビで放映されたミュージカル映画『ドリトル先生不思議な旅』を観て、脚本・作詞・作曲を担当したブリカッスさんの名前を覚えたのだ。後に、007『ゴールドフィンガー』『007は2度死ぬ』の主題歌を作詞したのもブリカッスさんだと知った。

  そのブリカッスさんが我々の『ジキルハイド』をご覧になると言う。興奮と緊張が同時に襲って来たのを昨日のことの様に覚えている。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月26日(月)

  本日もまた通し稽古。

  『ジキルハイド』初演の立ち稽古で、最初に手をつけたのは「嘘の仮面」であった。
  「嘘の仮面」は、幕開きのジキルと父親の場面に続くナンバーで、鹿賀さんを除く全てのキャストが登場する。スタイリッシュでとても迫力のあるナンバーだが、ここはまだ本編ではない。その後本編に登場するキャラクターたちではあるが、人間関係も人物像も抽象的である。
  このナンバーをはじめ、『ジキルハイド』のステージングは上島雪夫さんである。が、理事会や「事件、事件」など、いくつかの場面は私が作った。音楽が流れている中で芝居をどう組み立てるか。音楽をどう解釈し利用するのか。『ジキルハイド』の稽古を通して、私もミュージカル作りの様々なことを学習した。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月25日(日)

  本日も通し稽古。

  『ジキルハイド』初演の稽古は2001年8月25日にスタートした。まずはコーラスや台詞を割り振るためのカンパニー内でのオーディションを行い、そしてヴォーカル稽古に進んで行った。この時期、稽古と平行して、台本、歌詞、舞台美術、衣裳、音楽、ステージング、アクション・・・などのミーティングも継続されていた。
  ミュージカルの新作を開ける時は、どんなに早くから準備しても結局はこのように稽古とスタッフワークが同時進行になる。それは作業が上手く進行しないからでもみんなが忙しいからでもなく、ミュージカルと言うものがセクション毎の作業の積み重ねであるのと同時に、セクション毎の成果を全体が共有して行く総合芸術だからである。

  1ヵ月にわたる入念なヴォーカル稽古の後、10月2日に顔寄せと読み合わせが行われた。(つづく)

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『ジキル&ハイド』お知らせ

  公式ページでは既に告知されているのでご存知の方も多いと思われるのだが、4月16日(月)、20日(金)、23日(月)の3日間、終演後にアフタートークショーが予定されている。出演予定者は・・・

    16日(月)/鹿賀丈史さん、鈴木蘭々さん、山田和也

    20日(金)/マルシアさん、浜畑賢吉さん、戸井勝海さん、山田和也

    23日(月)/鹿賀丈史さん、マルシアさん

  である。詳細は公式ページをご覧ください。

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『ジキル&ハイド』通信

3月23日(金)

  1回目の通し稽古。

  ミュージカルの準備で最も苦労するのは訳詞である。それは日本語がそもそも具えている特徴と音楽との相性が抜群に悪いからである。
  よく「ミュージカルは突然歌いだすから不自然だ」と言う指摘があるが、ミュージカルに接した時に受ける否定しがたい違和感は「突然歌いだすから」感じるのではなく、「日本語で歌いだすと、それまでの日常的なしゃべりから、テンポもスピードもイントネーションも、余りにも乖離するから」感じるのである。極論すれば、日本語でミュージカルを作るのは不可能なのである。

  『ジキルハイド』の訳詞作りも困難を極めた。髙平さんの訳詞の第1稿が上がると、髙平さん、音楽監督の甲斐さん、声楽指導の北川さん、鹿賀さん、私が集まり、北川さんに実際に歌って貰うのを聞きながら意見交換し、また髙平さんが持ち帰る、と言うことを繰り返した。
  訳詞の改訂は初演の後も続けられ、ようやく現在の歌詞に落ち着いたのは2003年の再演時であった。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月22日(木)

  どん底、ジキルの書斎、研究室、ルーシーの部屋などを稽古。

  理想主義者であるヘンリー・ジキルの世界と、本能に突き動かされるエドワード・ハイドの世界。その2つを視覚的に表現するために、前者はモノトーンで、後者を極色彩で作ろうと決めた。そのプラン通りに、舞台美術をはじめ照明も衣裳も、最初の変身まではモノトーンで(色を使わないで)デザインをしてもらった。
  そのモノクロの色調の中で、ジキル博士が手にする「薬」だけが赤々と輝きを放っている。その赤はジキルの情熱の強さでもあろうし、あるいは血や暴力の匂いでもあろうし・・・。

  解釈は観客の自由に委ねられている。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月21日(水)

  1幕後半を稽古。

  私は、『ジキルハイド』は「都市」で起こる物語だと捉えていた。理想主義者の医師も虐げられた下層階級の人々も、みんな大都市ロンドンで生きている。都市には善も悪も、人間社会の全てがある。そして都市のど真ん中で、人の流れが途絶えた一瞬に事件は起こる・・・。そんなイメージが頭の中にあったので、物語の全てがロンドンの街の中で起こるようにしたいと考えていた。
 
美術デザイナーの大田創さんにそのイメージを伝え、舞台の三方を「街」のコラージュで囲う基本デザインは出来上がった。ただし、現在のプランに決まるまでには夥しいアイデアが検討されては没になっている。中には舞台模型まで作られたのに日の目を見なかったデザインもあった。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月20日(火)

  2幕中盤からラストまでを稽古。

  マルシアさんは、出演が決まるとすぐに声楽指導の北川潤さんの所へ通い始めた。ルーシーの歌うミュージカル・ナンバーの音域が自分の音域とは違うので、コンサートなどで歌う時とは違う「声」を開発するために、1年以上前から準備を始めたのである。
  マルシアさんは『ジキルハイド』初演の演技で芸術祭賞演劇部門新人賞を受賞したが、その影には地道な努力の積み重ねがあったのである。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月19日(月)

  稽古前に東宝ミュージカルアカデミー第1期生の卒業式。入学式の時に撮った写真と同じ構図、並びで記念撮影。

  稽古はジキルの書斎、研究室、ロンドンの街。そして1幕前半を通す。

  日本版の構成を決めていく間、鹿賀さんとはかなり早い段階から色々と意見を交換した。例えば、日本版の冒頭には隔離された父親と交流するジキルの姿が出て来るが、これは鹿賀さんのアイデアである。ブロードウェイ版ではストレッチャーに寝かされた病人のイメージなどが現れるのだが、この変更によって実験に取り組むジキルの動機が格段に明快になったと思う。

  甲斐さんとの打ち合わせや鹿賀さんとのミーティングの中から生まれた様々なアイデアを、髙平さんが上演台本にまとめて行ったのである。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月18日(日)

  どん底、ジキルの書斎、ルーシーの部屋などを稽古。

  『ジキルハイド』の音楽監督は甲斐正人さん。譜面が届いたところで稽古ピアニストの間野亮子さんに全曲弾いてもらい録音し、その録音で予習した後に甲斐さんと、音楽の入る部分全てを台本とスコアを照らし合わせながら検証した。
  「
ここは日本語にすると歌だけでは説明しきれないから、芝居で補足したほうが良いのではないか」「この歌詞は台詞でやることにして、音楽はそのままBGMとして使ってはどうか」

  こんな準備作業を半年以上繰り返した末に日本版の構成は決められて行った。(つづく)

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東宝ミュージカルアカデミー第1期生卒業公演

3月17日(土)

  東宝ミュージカルアカデミーの第1期生たちによる卒業公演『レ・ミゼラブル』が、今日と明日、池袋の東京芸術劇場中ホールで行われている。その初日を観て来た。

  去年の4月7日の入学式がつい昨日のことのように思えるが、月日が流れるのは本当に早いものである。あの頃、「この世界で本当にやって行けるんだろうか・・・」と感じられた一同も、今やいっぱしの役者顔である。
  そのひとりひとりと、そして東宝ミュージカルアカデミー自体の真価を問われる時がとうとうやって来た。卒業公演は、アカデミー初の一般公開される公演なのである。

  果たして観客の目に彼等はどう映ったであろうか。贔屓目に違いないが、私にはひとりひとりが逞しく、そして立派に成長したと思われた。物怖じせず生き生きとしているところが頼もしかったし、何よりも舞台を、作品を、役柄を愛している気持ちが伝わって来て気持ちよかった。
  公演自体も、美術、照明、衣裳、そして音楽とすべてに手を抜かない本格的なものであった。この公演の実現にお骨折りくださった関係者の全てに、この場を借りて御礼申し上げたい。

  さて、この公演が終わると、後は卒業式を残すのみである。みんな、本当によくやったよ。

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『ジキル&ハイド』通信

3月16日(金)

  「あたしは誰」「罪な遊戯(あそび)」「嘘の仮面 reprise2」「苦悩2」「新たな生活」「対決」などを稽古。

  『ジキルハイド』初演のオーディションは2001年の2月8日、帝劇9階の稽古場で行なわれた。『ジキルハイド』のキャストは、以前の仕事を見て出演を依頼した人とオーディションで選ばれた人の混成である。が、両者の間には何の区別もない。私たちは、『ジキルハイド』の成否は舞台に上るひとりひとりが握っている、そう考えていた。そのためには何としても適材を探し出し適所に配役しなければならない。その一点で進めて来たキャスティングなのである。そのこだわりは舞台上に見事に結実した。キャスト全員の力が『ジキルハイド』のクォリティを大きく底上げしたのは間違いない。

  『ジキルハイド』の出演者は22名。毎回カーテンコールで「たったこれだけでやってたの!?」の声を聞くのが嬉しい。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月15日(木)

  1幕ラストの大司教が○○される場面、2幕冒頭の理事たちが○○される場面、そしてルーシーが○○される場面を稽古。

  ジキルの婚約者・エマの配役も再演を繰り返す毎に変わった。初演のエマは茂森あゆみさんで、「うたのおねえさん」を卒業してまだ2年目であった。後に結婚し今では立派な一児の母である。
  再演のエマは知念里奈さんで、知念さんは初演のマルシアさん同様初舞台であった。その後『屋根の上のヴァイオリン弾き』『ミス・サイゴン』『レ・ミゼラブル』などに登場し、マルシアさん同様いまやミュージカルには欠かせない貴重な戦力となっているのはご承知の通り。やはり今では一児の母である。
  鈴木蘭々さんのエマは再々演からで、蘭々さんは『ジキルハイド』史上初めての続投するエマである。

  この役は子宝に恵まれるのだろうか?(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月14日(水)

  どん底、ジキルの書斎などを稽古。

  鹿賀さん、マルシアさん以外のキャスティングも着々と進められていた。
  主人公ヘンリー・ジキルの親友であり、『ジキルハイド』の語り手でもある弁護士のアターソン。2001年の初演でアターソンを演じたのは段田安則さんであった。段田さんはこれがミュージカル初挑戦だったのだが、この配役も「新鮮な顔触れでの上演」を目差した結果だった。
  ちなみに、その後アターソン役は2003年の再演では池田成志さんに代わり、このまま小劇場系の俳優がキャスティングされ続けるのかと思われたが、2005年の再々演では初演以来ジキルのライバル=ストライドを演じていた石川禅さんがアターソンに転向して演じたのであった。

  今回のアターソンは戸井勝海さんである。どんなアターソン像を見せてくれるのだろうか。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月13日(火)

  稽古前に、鹿賀さん、演劇評論家の扇田昭彦さんとプログラム向けの対談。
  稽古はプロローグ~病棟、理事会、婚約披露パーティなど。鹿賀さん絶好調。

『ジキルハイド』の翻訳・訳詞は髙平哲郎さんが引き受けてくださることになった。が、ここで問題が。『ジキルハイド』の上演件を管理する会社「MTI」からライセンスされた台本とスコアがブロードウェイ版とは異なっていたのである。
  元より我々はブロードウェイ版をコピーするつもりは無かったのだが、台本、スコアに複数ヴァージョンが存在することは想定外だった。急いでライセンスされたヴァージョンの検討を行った。そして、ライセンス版を元に、台本とスコアのカット案、そして台詞の追加案を作りMTIの許可を取る、と言う方針が下された。

  髙平さんのクレジットが「翻訳」ではなく「上演台本」となっているのは上記の様な理由からである。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月12日(月)

  プロローグや理事会や婚約披露パーティやどん底やジキルの書斎や研究室や・・・を稽古。

  上演が本決まりになると早速キャスティングが開始された。新鮮味があり、そのうえ『ジキルハイド』の難曲を歌いこなせる俳優を探す。3社共同製作ということで、それぞれの人脈を使って幅広いリサーチが行われた。ミュージカル経験者はもちろん、ミュージカル未経験の俳優やオペラのプリマドンナなど、様々な名前が浮上しては消えた。
  ある日、歌手のマルシアさんがミュージカルをやりたがっている、と言う情報がもたらされた。マルシアさんと言えば、歌手としての顔の他にテレビでのユニークな発言はお馴染みであったが、舞台の経験は無いと言う。

  私たちがマルシアさんにお目に掛かったのは2000年の6月26日であった。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月10日(土)

  全体で歌稽古。その後、「事件、事件」「嘘の仮面」「連れてきて」「嘘の仮面 reprise 1、2」「生きている」をあたる。

  『ジキルハイド』を上演したいと言う鹿賀さんの熱意とは裏腹に、翻訳上演の準備は捗らなかった。東宝以外にも上演を希望しているところがあるらしい、とか、誰それさんが演出したがっている、と言った話も聞こえて来て(私自身、その頃はまだ駆け出しの演出家に過ぎなかった)、上演のGOがなかなか出なかったのである。
  現在の東宝・ホリプロ・フジテレビ3社による共同製作という枠組みが決まったのはいつ頃であっただろうか。とにかく、「3社で収益もリスクもイーブンで負う」という前例のない体制が固まり、ようやく2001年の11月、日生劇場での上演が決定した。

  そして私も正式に演出を依頼されることになった。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月9日(金)

  2幕冒頭のナンバー「事件、事件」、1幕の「嘘の仮面」「連れてきて」を稽古。

  『ジキルハイド』のブロードウェイ開幕は1997年4月28日である。『レ・ミゼラブル』(1987年日本初演)を10年続けて来た鹿賀さんが『ジキルハイド』のCDと出会ったのはそれから程ない頃のことだった筈である。鹿賀さんは一聴して『ジキルハイド』の音楽の虜となり、日本版の上演を熱望された・・・と言うのは今ではかなり知られたエピソードであろう。
  私は『ローマの休日』日本初演が一段落した1998年の11月にブロードウェイ版『ジキルハイド』を観た。そしてその翌月に、初演のプロデューサーであった古川さんの仲立ちで、初めて鹿賀さんにお目に掛かった。

  日本版の上演が実現する3年前のことであった。(つづく)

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『ジキル&ハイド』通信

3月8日(木)

  顔寄せ。キャスト、プランナー、スタッフ、公演関係者が集まった。

  『ジキルハイド』は東宝、ホリプロ、フジテレビの共同製作なのでそもそも関係者の数が多い。加えて今日は、大阪公演、名古屋公演の関係者もいらっしゃり、稽古場は100人近い人数であった。その中で、4回目となる今回の抱負を述べる。「今まででいちばん勢いのある『ジキルハイド』にしたい。」

『ジキルハイド』OFFICIAL BLOGにもあるとおり、稽古は2月13日よりスタートしている。2月中は主に歌稽古を、3月に入り広い稽古場に移動してからは、歌稽古と平行して大勢が登場するナンバーのいくつかをステージングして来た。今までグループ毎に行われていた稽古も今日からは全体での稽古となる。

『ジキルハイド』の日本初演は2001年の11月であった。その後、2003年の1月、2005年の12月と再演を重ね、今回が4演目、そしてこのヴァージョンでのファイナル公演である。4月5日の初日に向けて、稽古場にも「勢い」を作って行きたいと思う。

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ご報告

3月2日(金)

  『グッドラック、ハリウッド』開幕しました。

  近々『ジキル&ハイド』通信、始めます。

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