『プライベート・ライヴズ』通信
8月9日(水)
立ち稽古、昨日のおさらいと続き。これで1幕の2/3辺りまでは辿り着いたであろうか。
ところで「ミザンセーヌ」という言葉についてだが、アメリカの演劇用語辞典「Theatre Language」によれば「演出家が行う舞台装置、俳優、照明等によって舞台画面を構成するあらゆる要素の配列を意味する」言葉である。
20世紀初頭に活躍したフランスの舞台美術家・演出家アドルフ・アピアは、その著書の中でミザンセーヌについてかなりのページを割いて検証しているが、仏語で書かれたその本がドイツ語に訳された時、「mise en scene」は演出を意味する言葉「inscenierung」に置き換えられた。
アドルフ・アピアの業績について記した遠山静雄氏の本に「ミザンセーヌ mise en scene は演出とも訳されあるいは狭義に舞台装置の意味にも使われるが・・・」とあるが、ミザンセーヌという言葉も、19世紀から20世紀にかけて演劇の理念が変化する中で、その定義する所は変化している様だ。
そもそも「ミザンセーヌ」という言葉が輸入されたのは、演劇の近代化が叫ばれ、その為には欧米の新しい演劇理念を輸入せねばならないとした明治の後期ではなかったかと思うのだが、その少し以前、19世紀の末から20世紀にかけて、イギリスやドイツ、フランス、ロシアなどでは演劇を大きく変化させようとする動きが起こっていた。
イギリスではゴードン・クレイグが、ドイツにはリヒャルト・ワーグナーが、フランスにはアピアが、そしてロシアにはコンスタンチン・スタニスラフスキーが・・・登場し、それぞれが独自に、あるいは共鳴しあって、それまでの娯楽としての演劇を芸術としてのそれへと変化させて行ったのである。
この時期の演劇改良は、その必要性を感じたそれぞれの問題意識の所在によって様々な領域に及んでいるのだが、例えばワーグナーやアピアは、それまでの絵画的に構成された舞台装置に飽きたらず、またスタニスラフスキーは俳優の演技術に飽き足らなかった。
そのようにして演劇の様々な領域が近代化されていくに従って、「演出」という職能の重要性も高まって行った。個々の領域を近代化しようとすれば、それは全体としての改革を促す事になる。演劇の「全体」とは、それこそ「演出」の事に違いあるまい。
とは言え、「演出」という言葉もその実態はとても分かり難いものである。「ミザンセーヌ」という言葉の分かり難さも、実はそこに発しているのではないかと思う。
それはともかく、演劇が様々な領域で近代化されて行った時、そこに導入された視点で最も重要だと思われるのは「時間」の概念ではないだろうか。
「ミザンセーヌ」は、ロシア語では「ミザンスツェーナ」になるのだが、アピアの考察の中に「ミザンセーヌは空間の設計に時間の変化を伴うもので、プロポーションとシークェンスに問題がある」とあるし、『スタニスラフスキイ・システムによる俳優教育』の中には「ミザンスツェーナは、(登場人物の)配置だけでなく、舞台空間内での登場人物の配置変えもふくむ。ミザンスツェーナは、一定の時間を費やしながら発展していく物である」と書かれている。
私は8月7日付の日記で「ミザンセーヌ(俳優の導線や位置関係)」と書いたが、私の興味は、「その位置関係がどう変化していくのか」と言う所にある。
ある瞬間の位置関係は、その瞬間のドラマの構造を表している。ドラマの構造とは、聞こえてくる台詞やそれを発している人物の感情とは別の、そのシーンを観客にどう受け取って欲しいかという作り手の意志の事である。
映画などの映像表現に於ける「視点」という概念を、観客にアングルを強制する事のできる「カメラ」という武器を持たない演劇で実現しようとする演出家の手段の事でもあるのだが、私にとってのミザンセーヌとは、上演中常に水面下に潜んでいるが、それでも流れ続けているドラマの構造(それが「プロット」である。水面上にあり、観客が常に意識している「物語」とは区別されなければならない。)を表し続けているものなのである。
近代以降「ミザンセーヌ」は、演出家にとって揺るがす事のできない大変重要な手段となった。が、今現在、日本の演劇の現場では、その言葉はそれ程の重要性を持っては理解されてはいない。その理由は、ひとつには言葉の持つ説明の困難さの為でもあるだろうが、現在の日本の演劇の現場が近代劇輸入の歴史と切り離された所にある、と言う事が大きいのではないかと思う。
その証拠に、近代劇輸入の歴史を脈々と受け継いできた「新劇」と呼ばれる劇団では、今でもミザン、あるいはミザンスという言葉は現役である。恐らく、その言葉をフランスから学んだ人たちは「ミザンセーヌ」「ミザン」を、ロシアから学んだ人たちの系譜が「ミザンスツェーナ」「ミザンス」を使用しているのだろう。
「俳優がどのタイミングで、どのルートを通って移動するか」と言う事は、その俳優の生理を無視して決める事はできない。が、演出家は、俳優の生理と折り合いを付けた上で、生理や衝動とは別次元の意味をその動きに籠めているのである。
いかがなものであろうか、飯島早苗さん。
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